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慶應義塾體育會空手部

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空手の由来 第1回(全6回)

空手の由来について、慶応義塾の空手の歴史から見たものを第一章とし、第二章は日本の空手の歴史の一つの側面について記述してみました。

平成14年8月 望月 康彦

第一章 「慶應義塾における空手の由来」

唐手研究会、次いで空手部の創立

 大正11年(1922年)、当時沖縄尚武会会長であられた、富名腰義珍師が東京で行った第一回体育博覧会(展覧会という人もいる)に招かれ、沖縄出身の一橋大学学生の儀間真謹氏と演武を行ったが、新聞にも取り上げられず反応は大変小さかったと言う。そこで沖縄出身で松村宗棍師の弟子でもあった男爵の伊江朝直氏が講道館の嘉納治五郎師に依頼して再度演武会を東京女子師範学校の講堂で催し役人、軍人、警察等関係者も多く集まり、柔道は嘉納師の他、永岡十段、、西郷四郎六段(後の小説姿三四郎)他で総勢300人を集めて演武会を行い大きな反響を呼んだという。これは私自身が後に船越師範(字を改めた)に何度も伺った。先生は稽古の帰り文教のお宅迄、部員が交代でお送りする折、決まって宮城(皇居)と講道館の前で電車の中からハットを取って軽くお辞儀をされた。嘉納師に対する恩義を屡々語っておられた。

 

 船越師のことを知った慶應大学のドイツ語の粕谷真洋教授は直ちに弟子入りして、大正13年10月15日学校の認可を得て船越師を師範として迎え入れ本州初の学校に於ける唐手研究会を創部したのである。実に粕谷教授はご家庭一体となって部と部員の面倒を見られた。部員募集の為に当時では珍しい映画を、部員を役者にして、悪者を空手で退治するなどのスト-リ-で造ったりされた。今、青山墓地に眠って居られる。

 

 船越師範はいつもマントにハットなどおしゃれであった。私ども部員がお宅までお送りした当時、既に80才になられていたが腰もしっかりされ、そして風格とゆとりがあり、女性の話もお嫌いではなかった。

 

 尚、最近まで学校に於ける空手部は慶應が最も古いとの言い伝えがあったが、昭和17年卒のOB松崎さんからお借りした沖縄の最長老長嶺将真師の著書によると「明治三十八年、四月沖縄県立第一中学校、那覇市立商業学校、及び沖縄県師範学校に唐手部設置、これと前後して県立農林学校、県立工業学校、県立水産学校等にもまた設置さる。」とある。一方唐手部としてではなく学校の教課としてのものは部とは別に教課として書かれているのでやはり此処に書かれた部は我々の認識する部と同様のものと解釈せざるをえない。とすれば我々が従来認識していた世界、若しくは日本初の唐手部の認識は本州初、に訂正しなければならない。余りこだわることではないかもしれぬが、やはり慶應としては間違いは訂正する必要がある。

 

 慶應創部の翌年の大正14年に東大(当時東京帝国大学)が、続いて、一高、そして順序不詳ながら学習院、一橋、次いで、昭和5年に拓殖、6年早稲田、9 年に法政が創部し、それらを門下とされた。しかしその後、やはり先生の門下であった大塚博紀師が自ら創られた転位、転体、転技の技等をもとに和道流を開かれて独立し、以後東大は和道流となった。

 

全日本空手道連盟の組織と松涛同門会

 突然時代が一足飛びに飛んで、全日本空手道連盟(以後、全空連)の事となるのは、いささか唐突ではあるが、松涛同門会が出来、船越先生の記念碑を鎌倉円覚寺に建立したことを書く筋みちとしてこれも空手の歴史のひとこまとして残して置くべきと思う。

 

 昭和41年春伊藤(俊)、高木(房)さんに呼び出されて私がパレスホテルに行くと「松涛一門の会を作りたい」とのお話しだった。「それぞれの団体には話しをしておくから後は望月が連絡窓口となってまとめるように」とのことであった。

 

 その時の話しを要約すると、既に昭和39年に設立されていた全日本空手道連盟は、その当時の組織は現在と同様日本全国を都、道、府、県の連盟として全空連の統率のもと各自、地区連盟で運営してゆくものであったが、当時の構成団体は全日本学生空手道連盟、全日本実業団空手道連盟、全国自衛隊空手道連盟(後に実業団連盟と合体)とそれに4大流派、即ち松涛館、剛柔流、糸東流、和道流をそれぞれ代表する各1団体の合わせて7団体によるものであったと記憶している。更に後に佐々木氏の主宰する全国空手道連合会が加わったのではなかったかと思う。

 

 そして松涛館を代表する上記の1団体が、昭和32年4月10日文部省が認可した社団法人日本空手協会(以後、協会)であつた。 (その後、協会は昭和50年11月全空連を脱退、6年後の昭和56年全空連に再び復帰し、全空連組織変更後の松涛館代表として全空連各流派後援団体の一つとなる。又、これとは別に平成2年、協会の一部が協会を割って出て、社団法人登記簿謄本事件をおこし、裁判となり東京地裁、東京高裁における協会の全面勝訴を経て平成11年6月最高裁に於て却下されたことにより協会が全面勝訴で終結している。)

 

 さて、慶應は昭和32年の空手協会設立と同時に小幡、伊藤、高木さんは勿論重要な立場で、又、高木、望月、鈴木(博)が技術指導員として登録され、岩本さんも稽古に参加していたが、33か34年に慶應は全面的に手を引くこととなり、その結果として、即ち慶應が協会から離れたことにより上記の全空連の組織には直接の関係を絶たれることとなっていた。それ故に上記の伊藤、高木両先輩のお考えは、松涛同門会を設立してこれを全空連に日本空手協会以外のもう一つの松涛館を代表する団体として認可させ、それによって慶應、早稲田、法政その他が全空連に正式に加わってゆこうとする将来を見据えた計画であった。

 

 そして結局これは全空連が、もし松涛館に2団体を認めることとなれば、今まで1流派1団体で整理されていたものが他流派からも複数団体の全空連加盟の希望が殺到して乱立する結果を招き運営上収集がつかなくなるとして強く拒否し実現にいたらなかった。之に対し更に伊藤さんとしては、空手に他の武道種目を加えて団体を造り全空連に加わろうと考えられたか或はその検討を試みたか今となっては分からないが、少ししてパレスホテルに塩田剛三氏を食事に招き、拓大OBの福井さんも同席され私もご一緒することとなった。塩田師に武道の連合会を創立することを申し入れその場で塩田氏の基本合意があったようであったが、結局その後の進展に至らなかった。それに止どまった理由を私はうかがっていない。 現在の全空連の組織は、日本全国にわたる都、道、府、県空手道連盟各自の運営を全空連が統括しておこなわれているが、競技団体として全日本学生空手道連盟、全日本実業団空手道連盟、全国高等学校体育連盟空手道部、全国中学校空手道連盟。協力団体として全日本空手道連盟剛柔会、全日本空手道連盟糸東会、社団法人日本空手協会、全日本空手道連合会、 全日本空手道連盟錬武会、全日本空手道連盟和道会から成っている。後に、松涛同門会が世界の門下一同の募金による浄財で鎌倉円覚寺に建立した船越先生の記念碑に昭和43年以来30余年、門下各校並びに日本空手協会が毎年 4月29日に円覚寺に集いお参りを続けている。又、上記和道流四校も当初はご長老が寄付にも加わり出席していた。

 

 尚当時、円覚寺の管長は朝比奈宗源師であり、慶應OBとのご縁があり、山本(孝)さんと記念碑建立のお願いにうかがったところふたつ返事で無償で土地をご提供くださった。記念碑には最も教育的内容を今尚我々に残す「空手に先手なし」の琉球時代からの戒めを朝比奈管長の筆で見事に蹟していただいた。又、大先生の人となりについて、早稲田大学の大浜信泉元総長より船越先生の碑文を頂戴した。

 

 大浜先生は沖縄県のご出身で、早稲田大学教授として初代空手部長にご就任され戦後も永く部長にあられ早大空手の精神的、知的、支柱として育てあげられた。そして初代全日本学生空手道連盟、並びに初代全空連の共に会長として空手界の基礎を固め、社会的信頼を築かれた。その功績は極めて大であった。

 

体育会空手部となる

 戻って昭和4年、慶應は学校の部では率先して正式に「空手」の字を採用し4月15日慶應義塾空手研究会となった。そして7年2月3日塾内対抗競技部新種目団体となり、次いで同年10月15日、皆が待ちに待った体育会空手部の認可を槙体育会理事より戴き部員一同道場で飲み、歌い、踊って、巻紙に筆で「部員一同欣喜雀躍手の舞い足の踏む処を知らず候」と候文でしたためられた槙理事への礼状が、後に学校から返還されて今も三田綱町道場に飾ってある。皆の純真な感動の場面が忍ばれて胸が熱くなる思いがする。

 

 慶應義塾唐手研究会創立の日、これが8年後空手部創部の同月日となったのである。

 

 昭和7年10月23日、三田空手会が創立した。本章の末尾にも書かれた慶應義塾体育会空手部OBたち全員の平等の関係による会員相互の信頼と協力。空手部の援助と指導。先輩への敬意。を根本とした、現在までに延べ1000人を越すOBの親睦と協力の会である。振り返ってみると、我々の空手部は、その創立期は先輩方が誠にまじめで、真摯で、学問的であった。次いで戦時期に入ると、ロマンチシズムとインテリゲンチヤを標謗し、むしろ自由に生きた。戦後は荒廃の中から立ち上がって夢を追いながら、それぞれの時代に現実に対処して生きてきたように思える。

 

慶應内のその後の創部

 昭和8年4月11日幼年組が誕生して普通部、商工学校に空手部が創部された。戦後の23年高等学校(新学制の)、27年女子高等学校(28年解散し3年部員は大学空手部へ)、31年工学部(現理工学部)に創部、36年医学部空手同好会結成(現医学部体育会空手部)、 44年幼稚舎空手同好会発足、平成に入り、平成2年(1902年)12月ニユ-ヨ-ク高等学院空手部が創部、平成4年湘南藤沢高等部中等部空手部が創部された。

 

新道場の建設

 昭和3年5月3日、それまで野球の早慶戦の勝利の夜の提灯行列用のカンテラを置く俗名かんてら小屋を学校から借用し初めて空手の道場とし稽古を開始した。その時の先輩方のお喜びは想像して余りある。又、それまで、その後も今日まで、柔道部、剣道部にいかにお世話になり、そして器具をすり減らして来たことか、それらを我々は忘れてはならない。そして現在尚、寒稽古、関西大学との定期戦等にお借りしている。

 

 昭和9年5月5日綱町に初めて空手新道場が落成した。部員達の喜びはいかばかりであったかと想う。この道場は43年迄31年余部員達が永く愛着をもって使用し戦前、戦中、戦後の苦楽を共にした。この道場を所謂カンテラ小屋と勘違いしている人が少なくないがその前の之が出来るまでの道場として使用した建物ががカンテラ小屋である。昭和12年5月6日日吉新道場、26年5月27日同じく日吉新道場、33年4月27日日吉道場、33年10月11日工学部(現理工学部)小金井新道場、 38年8月医学部信濃町新道場、43年10月20日綱町新道場、そして平成4年9月27日の蝮谷新道場へと繋がってゆく。 平成元年春、突如として体育会から、もはや蝮谷道場の修理は不能との連絡が入った。学校は丁度藤沢やニュ-ヨ-クの学校建設中で資金が不足しており厳しいが、3年後に控えた体育会100周年記念行事の一環として少しの援助は考える、とのことでだった。慶應は伝統的に体育会OBの愛部精神と情熱に期待しているのだ。当初より学校は我々が6500万円の寄付を約束する文書を学校に提出してからでないと建築を認可しない建前であり、菅会長以下「全員参加」をスロ-ガンに一丸となって協力しあい、1件の法人を除きOB会員のみによるほぼ2倍の1億2千300万円の浄財が集まり、道場面積も2倍となって、平成4年9月27日道場開き、竣工祝賀会を開催し、ご来賓、及びご家族、部員達そして共に協力しあって進めたレスリングの諸兄方と慶びをわかちあった。

 

 学校も空手とレスリング双方に各2000万円を下さったが当時の状況からすれば大変なご好意であった。

 

(第2回に続く...)

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