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慶應義塾體育會空手部

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空手の由来 第2回(全6回)

第二章 「空手の由来」

はじめに

 空手の由来について幾つかの本を読んでみたが、総じてその内容が琉球に伝来以後のもので資料収集には、特にそのシナ時代についてはさぞ御苦労されたであろうと想像された。 かねてより私もシナ時代の空手の由来について系統的に書かれたものを目にしたことがなくそれ故に、容易にそのご苦心が想像出来たのである。物語的なものか、或は時には断片的にもならざるをえないはずとも思える。そのような次第でこの時代の空手を系統的に把握することが困難に思われた。一方又、琉球時代においても空手に関する資料は戦災もあって、戦前のものは誠に少なく空手の歴史として書くには大変こころもとないが、今私がそれらを調査してゆくことは無理と考え頭記の趣旨の中でそれぞれ先達の方々の書物を元に微力ながら試みてみることにしたいと思う。

 

 [注] 現在の中国は、過去、国名が数多く変更されてきており、且つ過去に、現行の中国に類する国名がなく、元慶応義塾塾長であった小泉信三先生が昭和41年(1966年)岩波書店から発行された「福沢諭吉」が全て過去の中国を「シナ」として表現されていることに習って時代をその当時の国名で特定する場合以外は、一つの国名で表現出来ないので以下シナの表現で、又、年代についての数字は西暦で大体統一する。 この「シナ」とは、紀元前223年始皇帝によって始めて統一されて出来た秦国の発音からくるものと言われており、始めはインドの仏典に現れ後にヨ-ロッパで広がり、日本では江戸時代中期から呼ばれはじめたと言われている。何時、何処からか「支那」の字が用いられ、前後して「シナ」「China」と呼ばれるようになったのではないか。 「イングランド」(英国)を「イギリス」と呼ぶようになったことと共通するように思われる。只、現在の中国を「シナ」と呼ぶことは正しい国名「中華人民共和国」があるので、これは不当と考えなければならない。

 

 シナで空手がどの時代に起こったかについては、当然のこととして、それぞれの調査によるそれぞれの時代検証、見方、考え方、その他あの広いシナでしかも4000年を越える歴史の中で、かつ記録の整備が不備であること、更に、多くの国の歴史の中で多くの格闘武術の初期的段階が自然発生的に生まれ、いろいろな経過を経て進化してゆく過程で、例えば空手として、その武術的形態の中から、それをどのあたりからを今の空手の発祥期の範疇として考えるべきなのかなどなど難しい問題である。これらは画一的に定義できる問題ではなくその結果は人の考え方、調査のしかた、などによって多くの見解を生む。 以上のところから、本文は空手の琉球伝来以後から極力諸説を披露しながら信憑性を基本にした観点から記述して参りたいと思う。

 

琉球の統一と外交方針

 琉球が何時統一されたかということは、何を以て統一と見るかによって異なるが、藤原稜三氏(武術史全般に関する著述家の代表的存在の一人、『格闘技の歴史』『守破離の思想』『禅の歴史と思想』その他多数の著述及び『空手ジャ-ナル』主宰)。の著「格闘技の歴史」によると。「琉球の伝承に従えば欠史時代の支配者は天孫氏なる豪族で、その二十五世の時、利勇なる奸雄が現れ天孫氏の王位を奪取し自ら中山王と称したのだと言う(只しこの中山は後の三山対立時代の中山とは異なる)。 しかしこの偽王の治世は長続きせず、舜天によって滅ぼされてしまう。偽王を滅ぼした舜天は諸公の推戴を受けて、正式に中山王位を引継ぎ琉球王朝時代はこの舜天から始まる。これによって琉球の有史時代の幕を開くのである。そして琉球王朝の歴史が中山の歴史として、この舜天王統(1187~1259年)から始まり、英祖王統(1260~1354年)へと引き継がれ、次いで14世紀中頃から北、中、南の三勢力に分れて対立する三山抗争の時代に入ってゆく。

 

 琉球では現在の村を古くは間切り(まぎり)と言い、各間切りには安司(あんじ、若しくは、あじ)と呼ばれる武力支配者が居り、その中の勢力のある者が世主(よのぬし)と称して城郭を構えていたが次第に兼併して力をつけ英祖王統が終わりを告げた1354年以後上記北、中、南の三山時代を迎える訳である。

 

 丁度その頃、シナでは明が元(1234~1366年)を滅ぼし(1368年)天下を統一して周囲の国々に遣いを発してこれを告げて忠誠を促していた。一方琉球では上記三山時代から、それぞれが大国の支援を受ける目的で明に貢物を献じ、明もまたそれぞれ三山に王号を授け、これにより琉球全体が明の朝貢国となり明の国王就任の都度、国王勅使としての册封使が琉球に派遣され、琉球の各王に領土とその統治権を承認し、琉球からの貢ぎ物を受けてシナに帰国する習わしとなった。この册封使の初回の琉球来訪は1404年で以後継承され最も多い時は600人が6ヶ月滞在の記録がある。 更に藤原氏は、琉球王朝の歴史が中山の歴史として、上記舜天王統から始まり、英祖王統へと引き継がれ、次いで上記三山分立時代を経て、第一尚氏王統(1429~1469年)から第二尚氏王統(1469~1)へと続き、第二尚氏王統の時代に明治維新を迎えたことになっている。と書かれている。続けて、舜天王統と英祖王統については記録にかなり怪しげなところがあるけれども、三山分立時代に入ると、明朝の側の記録が加わってくるので、その信用度は急速に高くなってくる。と。 明国が初めて琉球島へ使者を送ったのは、1372年(洪武5年)朱元璋(明国の太租=洪武帝=1328~1398年)が大明皇帝の時代であった。上記三山分立時代の余韻の残る15世紀の始め、佐敷の安司、尚把志(しょうはし)が勢力を得、二山を次々に討って1429年琉球本島を統一し尚王時代に入る。そしてシナ及びインドネシア、朝鮮半島その他南の国などとの貿易の中継点として盛大に交易を行って莫大な利益をあげ首里王都の建設、その他大変豊かな時代を築いていったのである。王統は7代48年に及び1470年尚円が代った。(日本百科大事典より)。上記と年代的に幾分不一致はあるが、ほぼ1429年頃を以て琉球の統一が完成されたと見て良いと思う。

 

 この時代の琉球の政治は以後、平和維持と交易の2点に絞られて進むこととなる。これは琉球歴史の大きな特徴であった。役人はサムレ-と称して行政を行うが武器を持たず、その変わりに三線(サンシン)と称する楽器を以て歌舞音曲を習い専ら日本、シナを始めとする外国からの客の接待を重要な役割とし、上記の他に主に料理、演劇の研究と実技、日本用とシナ用の迎賓館を別々に建設し、それぞれの好む果物までも栽培した(NHK3チャンネルその他)。国の外交の基本を日本、シナ双方の何れにも偏することなく友好的に関係を保つことに最も重点を置いて平和と貿易の利益を最大に享受した。その外交方針が通用したことも合わせて、現代世界の環境とは大きく異なっていたのである(NHK3チャンネル、その他)。当時琉球は日本、シナ、インドネシアの貿易上の中心拠点として、更に朝鮮半島を入れた拠点として上記のように貿易に大きく発展、繁栄した。 又、時に俗に言われることのある、琉球が唐手をもって外国の軍の侵略を撃退したというようなことは歴史上残されておらず仮作(つくりばなし)ではないかと考える。現在でも空手を経験した比較的若い人のなかに琉球が過去、軍事的侵攻にたいし空手を以て戦い独立を維持したような歴史観を持っている人が意外に少なくないが、そのような事実に琉球の歴史で触れたことはない。1609年(慶長14年)薩摩藩の三千余名による出兵の折も琉球がこれに抵抗した記録に触れるものはなく、恐らく無血の首里攻略であったのではないかと思われる。これは当時の琉球政府の自国の当時の置かれた国際状況を十分に認識した優れた外交方針であった。 一般に火器でなくとも弓、刀、槍など武器を所有する国家の集団組織たる軍隊に対し空手に限らずその他の徒手空拳の武術の集団が対抗し得ないことは想像できる。尚、参考までに火縄銃は1543年(天文12年、室町時代)種子島に伝来した。大砲は、先ず黒色火薬が7世紀頃シナで発明されアラビアを経てヨ-ロッパに伝わり13世紀に欧、亜を大きく征服した蒙古軍は火箭(かせん=ロケット的なもの)を使用したと言われており、次いで日本に侵攻した元軍(国王フビライは蒙古ジンギスカンの孫でこの頃元はシナ全土を制圧し、更に広く南方方面及び朝鮮半島も事実上制圧していた。)もこれを用いた。大砲は14世紀の始めドイツの僧侶によって発明されたと言われイギリス、フランスなどで製作され1346年英、仏間のクレッシイの戦いで使用されたという。

 

 [注] 上記、元軍の日本侵攻は1274年文永の役で元軍が対馬、壱岐を侵し次いで佐賀、長崎両県の一部に上陸し、1281年の弘安の役では旧宋軍捕虜及び朝鮮高麗軍を伴った元軍十万余が福岡、長門に大挙襲来したが日本も時の執権北条時宗麾下、国を挙げて決死で戦い、同時に上記二役共に沿岸で大台風に襲われ元軍は大損害で敗走し日本国は救われ独立を守ったのであった。

 

 長嶺将真氏(沖縄空手道連盟会長4期、戦後沖縄空手界の代表的存在)の著「沖縄の空手道」(同氏と親交のあった慶應義塾大学空手部OB、松崎孝一郎氏より拝借)、その他の著者の書に1816年、那覇に寄港し40日間滞在した英国軍艦二艘が帰途セントヘレナ島へ立ち寄り、東洋に武器を持たない小さな非常に裕福な島国がある事を話しこれを聞いたナポレオンを大変に驚かせたとも書かれている。

 

全日本空手道連盟の組織と松涛同門会

 さてこのあたりから次第に空手が琉球に渡った経過に近づく訳だが。藤原氏によると、明の朱元璋皇帝が琉球統一前の中山王察度に対し進貢使(貢ぎ物を送る為の使い)の船舶の便宜を計る為に1396年の1月(洪武29年)福建人の船舶建造の舟大工三十六姓を与えているが、実はその20年も前から中山王の政務を助ける為とする少なくとも50人以上の明人の官吏が琉球に送られて現地妻を迎えたりして、第二世も成人しており少なくも200人以上の同族集団が首里城下で暮らしていたこととなる。これは明の内陸系の安徽人や江西人が中山王府の中に在って行財政面において、大きな役割を果たしていた訳だからそれらの人たちが、長江(日本で言う揚子江)流域で行われていた拳法(南派拳)を琉球島に持ち込んできたと考えても不思議ではあるまい。福建派に見当たらぬ「公相君」の形などもそう考えることによって解明の道が開けてこよう。上記のようにこれより20年遅れて琉球に渡った福建人三十六姓の場合は舟工(福建省は船材の産地で造船の本拠地)として渡来してきた人達であるから造船、操船(『海洋族、越人の子孫』越人とは春秋時代の列国の一つでその習俗から見て東南夷と考えられている)の技術には長じていたものの、既に福建の拳法(こぶし)は殆ど解明されていたのでこの人達(福建人舟工)が拳法(こぶし)の最初の伝来者と考えることには矛盾がある。と書かれている。 この船大工渡琉以前の明人官吏によって伝えられたと考える説は、一般に上記の明の朱元璋皇帝が送った船大工の中の幾人かによってシナの拳法が伝えられたと言う通説をかなり周到な調査のうえで否定している。何れにせよ今の空手が何時硫球に伝えられたかは多くの人の深い関心事だが、これから先は私の言及の及ばない処である。 斯様にして、後に琉球で始めて「唐手」と呼ばれる事となった拳法(拳法のなかで、棍=棒、拳=こぶし及び蹴り足を中心とした素手の武術)が伝えられ、後に琉球で始めて「唐手」と呼ばれることとなったのである。 シナに於ける武術史の中で「唐手」或は「空手」と言う言葉は現在までシナ武術の言葉として現れてこないようであり「唐手」と言う言葉が琉球で生まれたことを琉球の多くの書が明言している。又、武術、武技、格闘武術などの言葉は使われるが武道という言葉も現れて来ない。「武道」は鎌倉時代に儒教を母体とし日本で生まれた精神文化の「武士道」と関係が深いことは間違いない。「武士道と武道」については、第一章に私自身の思う所を率直に記した。 来たる2008年北京で開催されるオリンピックに中国が8種目の中国武術の競技を申請するとの新聞記事を平成14年始めに読んだが、太極拳、拳法、カンフ-(シナ拳法の総称のような意味を持つ)なども考えられるもののアテネオリムピックに向けて競技種目の削減が言われておるなか行方は不明である。

 

 一方、前記中山王府の政務輔粥(ほひつ=明治憲法の観念で天皇の国事行為に進言し、その結果に対し全責任を負う役割)の任で之に赴任した明の官吏達の先住者グル-プの邸宅は首里城付近に堂々と構えられているのに対し、福建人グル-プの住居は、首里城から離れた浮島(唐栄村、久米村)地区に限定されているから二派の唐手術が琉球内で併立しながら存在していたとしても少しも怪しむに足りない。としている。(首里は現在の那覇市の岡の上にある)

 

 そもそも琉球にはかなり古くから「手」(でぃ、若しくは、て、で)と言う武術があったが、大塚健治氏著(関西大学空手道部OBで昨年空手に関する長年のご研讃から文部科学大臣表彰を受賞)「空手道の理論と実際」によると「琉球では徒手武術のことを「手(でぃ)」と呼びその系譜は首里城を中心に発達した首里手(松村宗棍1809~1899年)系と、那覇で受け継がれた那覇手(東恩納寛量1853年~)系、そして泊村で栄えた泊手(宇久嘉隆1800~1850年、照屋規箴1809年~)系の三つの系譜でありましたが、後に生まれた上地流(上地完文1877~1948年)系を加え大きく四つの系譜に分類され現在では流派に発展し少林流、小林流、松林流、剛柔流、上地流、本部流、一心流、劉衛流、湖城流、沖縄拳法などの流儀流派が見られます。」とある。更に、「『手』は明治38年(1905年)に沖縄県立中学校の正課に採用され唐手と書いて(とうでぃ)と読ませるようになり更に、昭和11年(1938年)に那覇昭和会館で武道家の協議集会が開かれ倫理的教訓を第一義とする『徒手空拳の武道』と言う見解から「空手道」の文字があてられました。とある。

 

 この「手」については琉球に古くからあったと言われているが、その期間、技の内容などはっきりしたことは分っていない。藤原氏は琉球ではシナから拳法が伝来して以来琉球人がためらいなくこれを唐手と呼んでいることから、それまで「手」の存在がそれ程重きをなしていなかったと考えられるとされており、前記、沖縄の長嶺氏は「唐手」の名と字は拳法がシナから渡琉後に琉球で付けられたとそれぞれ書いておられる。

 

(第3回に続く...)

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