空手の由来 第3回(全6回)
第二章 「空手の由来」
シナに於ける拳法(現在の空手として)
前述のごとくシナに於ける空手の発祥の実態は今なお半ば闇の中の状態に近いとも言えるが、515年、梁の時代にインドから達磨大師が梁に入り少林寺にこもって座禅をされて、と言う話は昔から空手との関連で通説的である。しかし、これを裏付ける資料は全くと言えるほど目にされていないらしい。又、大師の書籍も書も全くと言えるほど残されていないようで、その後も1368年に始まる明の時代に入るまで更に明に入ってからは拳法という言葉は頻繁に現れるが、それが拳(こぶし)を用いる武術なのか否か、槍若しくは長めの棒と両方存在したことは間違いないにせよ、このどちらを指すのか、またどちらが主流であったのかなど、史実として不明な点が大変に多い。同時に私の調査の不備によるか、はっきりした記録として現れて来ない。その時代にしばしば記述や挿絵に現れる剣や長い棒を用いた格闘術がむしろ主流だったのではないかという見方が多いのである。
笠尾恭二氏(早稲田大学空手部OB、空手及び空手以外の格闘武術の歴史を長く丹念に研究され、その著書に「中国武術史大観」「中国拳法伝」その他)著の中国武術史大観に「明代中期に至るまで少林寺を代表する武術は、拳法ではなく槍法或は棒術であったと言うことである。」と。又、「明の万暦年間(1573~1620年)倭冦(日本の海賊)が江蘇省、浙江省をしばしば侵した折、少林寺の僧にこの撃退を委嘱し、月空なる者三十余人の徒を率い、鉄棒をもってこれを防ぎ、ついに退かしめた」とある。 更に、明代兵書のうち代表的な存在である武術書の「武備志」三巻のうちの第三巻に「棍は少林を尚ぶ。今、寺僧多く拳を攻める。而して棍を攻めず。何ぞや。」と。この書は万暦年間(1573~1619年)つまり明のほぼ終期であるところから、又上記梁の後に陳、随、唐、五代十国、宋、金、元、明、を経る千年の間にこれといった拳(こぶし)の時代がはっきりと記録に現れてこないことに疑問が残る。とある。 笠尾氏は早稲田大学学生時代を含め卒業直後からシナ時代の拳法の研究にたずさわれ原書を翻訳して調査を続けた方で、その著には原文に平仮名を挾んだ文が、その訳文と並んで多く載っている。 同氏が「中国拳法伝」に「我々が注意しなければならないのは、7世紀初期から明代中期に至る迄、少林寺を代表する武術は、実は拳法ではなく棍法すなわち棒術或は槍術の類であったと言うことである。」と。 明代の兵書にはその頃有名であった拳法.・棒術の流派名が多数、列挙されている。しかしながら、「小林寺の棍」はあっても「小林寺拳法」もしくは「小林拳」の名を見ることはできない。拳法といえば、たいてい宋太祖三十二勢長拳・六歩拳・猴拳・囮拳・温家七十二行拳などである。と。 明代(1368~1616年、1636年、1644年及び1662年と四度に渡って段階的に滅んでいった)兵書のうち最も有名なものは「武備志」であるが、棒術の部には、「諸芸は棍を宋とし、棍は少林を宋とす(宋は本源もしくは第一人者の意)。少林の説は近世、新都の『少林棍法せん宗』より詳細なものはない。ゆえに特にこれを採用する」と前書きして『少林棍法せん宗』の全文を数十枚の図とともに採録しているのである。その著者程宗猷(ていそうゆう)は少林寺で武術を学んだ生粋の少林武僧であった。そして武備志は第二巻の実技編で棒術の技法を少林の棍と槍(三種)の規格を図解し、ついで五十数種類の技法を簡単な説明文とともにに図解している。と。 このように棒術については詳細な解説を当時から現在に残しているが拳法(こぶし)についてはその類のものが殆どみられないのではないか、或は比肩するものがわれわれの知らない処にあるのかも知れないが。
又、日本空手道の主要流派は、本土関係が松涛館、剛柔流、糸東流、和道流、上地流であり沖縄関係が小林流、松林流、剛柔流、上地流である。これらの流派はすべて明治、大正時代以降の成立であり、大別して首里手と那覇手の二系統に分類出来るが、首里手は琉球独特の風土性が加味された比較的古流の中国拳法の流れであり、那覇手はこれと対照的に明治中期に中国から直接輸入された東恩納寛量の伝を母体にして成立したものである。と。
(注)日本政府が廃藩置県を行ったのは1871年(明治4年)のことだが、琉球はその翌年の1872年に琉球藩になったばかりであり次いで沖縄県になったのも1879年(明治12年)であった。この時清国は琉球の清国への入貢阻止について、日本の意向が働いていたとして日本に度々強硬な抗議をおくっている。
1887年(明治20年)頃帰郷した東恩納は那覇に道場を開き、(沖縄初の空手道場)首里手の糸洲安恒と並び称される那覇手の大家となった。剛柔流開祖、宮城長順はその高弟であることは説明するまでもない。「もともと剛柔流は流派名としては小林拳と言うべきであり、剛柔はその本質を表す言葉にすぎなかった。」と剛柔の大家、比嘉世幸氏が笠尾氏に生前語ったことがある。
従っていま一方の糸東流の開祖、真文仁賢和が糸州安恒と東恩名寛量の高弟としてその両師の頭文字の二字を頂き糸東流としたことは改めて説明を要するまでもないが、更に船腰義珍が安里安恒と糸洲安恒の二人を師としたことからも硫球の手における糸洲及び東恩名の当時における重きの程が読みとれる。
笠尾氏が沖縄の道場を回り上地流の上地師範の道場を訪問した時は強い感銘を受けたそうである。「道場は質素で清潔で門弟の態度が大変よく師範のお人柄が現れていた。そして特に拳、指先の鍛練はものすごいものであった。サンチンの集団形、個人形、約束組手を見たが、『約束組手など見せ物のようなものですからお見せしなくともよいと思うのですが。』と、当方が懇請し先方が見せることにも恥かしそうな顔をされた。」「新城師範の形も実に見事で、初代、上地師範が福建省で習得された形だそうである。演武線が我々の流派と全く異なり、動作も鳥獣的なものが多かった。大島さん(われわれの引率者。早稲田大学空手部OB、米国松涛館創設者)も、各派を見た中でこの新城師範の形に最も感心されたようだった。」とある。また、前記、関西大学OBの大塚健治氏も上地流の形の現在尚見事なことに感銘されている。
この沖縄の空手修行の旅も実は、上記大島劼氏(1955年米国ロスアンゼルスに渡り米国初の空手道場を開き今日までの半世紀世界各国に於て空手と礼節に重きを置き指導を続け門弟延べ30余万人といわれる)が引率者であった。 大島氏は門弟達から深い信頼と尊敬を集め平成15年10月24日早稲田大学総長のたっての要請で早大大隈講堂で学生達と一般の人たちに講演をされ満員の聴衆から万雷の拍手を浴びたのだった。そして遡って今から三年ほど前、米国カリフオルニアのサンタバ-バラに世界一の空手道場を新築しその道場開きに世界各国から弟子達1000人を招き、全四日間にわたって盛大な大会を開かれた。その四日間、大げさでなく全く私語を耳にすることがなかった。そして外国人達が、大島さんから表彰を受ける時、涙がほほを流れる人を何人も見たのだった。あの光景は忘れられない。
一方、前記大塚健治氏は、少林寺時代以前からシナに於て空手の素となる格闘武術の発祥の跡がうかがえ、これが続いてきたと考えておられ、その人口の大小及び、武術の形態が現在の空手の形態との類似の度合いは別としてこれもまた多分に在りうるはずである。 更に又、世界各地、各国において格闘武術が種々の形態で自然に発祥し長い歴史をたどって来た事は間違いない。
薩摩藩の琉球支配
藤原氏の[格闘技の歴史」によると、琉球諸島の北緯29度以南の南西諸島は古くは南島と言い、奈良時代の頃まで日本の太宰府の管下とも言える状態にあった。事実それほどに縁の深い関係にあったが、日本はその後は琉球をシナ貿易その他との中継拠点として利用するため、これを明の属国の状態として、つまり形態としては一つの独立国として尊重して対応した。琉球も又、日、シ一方に偏することは国家の破滅に及ぶと承知して中立的立場を堅持しこれが琉球歴史の道筋となった。そして琉球はこれを長く守る事に成功した。
時を経て豊臣秀吉の時代、朝鮮に於ける戦いで秀吉が薩摩藩に命じて琉球王尚寧に対し7000人分の食料10ヶ月分を翌年2月末迄に坊津港まで搬入するよう指示したところ、財政窮乏を理由に割り当ての半分を送ったに過ぎず、尚王が、その一方の宗主国たる明の朝鮮に対する思いを配慮したことなどに、秀吉、琉球の間で命を受けた薩摩藩主島津義久の立場は深刻であったが、ややあって秀吉が亡くなり徳川家康の時代となった後も尚王の手落ちが重なり、結局薩摩藩は樺山権左衛門久高を総大将として1609年(慶長14年)3千名の兵を出して首里城を攻略してしまうこととなってしまった。
琉球諸島は、廃藩置県により明治12年沖縄県となる。第2次世界大戦後アメリカはその統治の間再び琉球を公称した。面積2388平方キロ、神奈川県よりやや広く、平成13年5月1日現在、人口132万人。
(第4回に続く...)