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慶應義塾體育會空手部

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空手の由来 第6回(全6回)

第二章 「空手の由来」

空手のこと

(A)高木さんの「空手青年のひとりごと」のこと。

 極く最近、高木房次郎さんの書かれた「空手青年のひとりごと」を再び読み直して、年齢では高木さんが亡くなられた歳に私はあとふたつ、みつに迫っているが空手に対する理解と思想のうえで如何に私が至らないものであるかあらためて痛切に感じた次第であった。私も高木さんの感化は昭和22年から受け続けてきて、且つそれを幾度も目からうろこの落ちる思いで強い衝撃で受け入れてきたものであり又それ故にこの本に書かれている空手に対する理解や思想も今までに幾度も聞き、理解してきたつもりであったが、にも拘らず改めて又、感じ入ったのであった。

 それは一つには高木さんの人間のスケ-ルであり知識の広さであった。あの方の考えには固定的なものがない。空手の立ち方も、形の挙動も、組手の対応も自由で自由人そのもののまま生きている。私にも高木さんの影響はいろいろと生きているのだがあの方の思想はずつと根本的であって規定された概念の固定ではない。端的にいえば、空手に対する理論として「大先生がこお言われた」「昔こうだった」がないのである。勿論大先生の理論、教えに、正しい根本的なものが多数残されていることは言うまでもない。

 

(B)現在の空手の問題点と方向性。 (他の格闘技との競合。当てないことの致命的ネック。作法のこと)

 空手はいま世界的に厳しい時代を迎えつつあると見てよいように思う。それは昭和の始め空手の激しさ、強さが日本社会の一般に強く印象付けられて広がった時期を初期として捉えるとすれば、次いで戦後に外国人達がそれまで日本の格闘術としての投げ、押え、逆といった、柔道、相撲から空手、即ち突く、蹴るを中心とした打撃効果の高いしかも単純でスピ-ドがあり、かつ直接的な空手に一遍に注目し、言わば初期的ブ-ムを起こし、更に続いて試合形式、制度の成立によって世界的に大ブ-ムとなった第二期。(先日、読売新聞に、本年世界柔道連盟の理事に就任された山下泰弘氏、が書いた記事によると現在米国では柔道はマイナ-であり山下氏がロスアンゼルスのオリンピックで優勝した時を最後にテレビで放映されていない。一方空手やテコンド-はメジヤ-と書かれていたが、惜しまれることであった)

 

 そして現在、K1、プロレス、他、乱立する各種格闘技、ボクシング、相撲そして本年、強化策に画期的といってよい成功を収めた柔道、これらに空手が遅れをとることは許されず、若し何かの機会に空手が他に破れる事が起こり、之が広がって空手の強さに疑義が生じることにでもなれば外国における空手人口の減少につながりかねない。現在の格闘技乱立の状況は不安定さを含んだ第三期と言えるかと思う。只、K1等は別格の体力を必要とするが、空手は普通人から入っていける特徴を持つ。

 尚、三年ほど前、日本空手協会が日本一の道場を建設し、その道場開きで私が乾杯の音頭を取らせていただいた折や、正月の鏡開の乾杯の折などしばしばスピ-チでK1に勝つ意識を持って下さるよう申しあげている。

 

 私は空手が当てない事が宿命的なネックだと考えている。しかし、間違ってはならない、当てないということに決して妥協は無い。体育或はスポ-ツの中に直接ひとに危害を加えることを目的とした運動行為によって直接的に危害を加えることは許されないのである。(ラグビ-のタックルで怪我することと本質が異なる)

 只、当てないことによつて空手が実際に強いのかどうか、勝ったのか負けたのか、よけられていたのか否か、他の武術に対しても時には空手に対してさえも之が明確にならない。これは空手の進歩を大きく阻害している。反省が生まれにくく改良がしにくい。自己満足に陥る例も少なくない。これについての改善の為に困難は多いが連盟、協会などで理想的な防具、器具に向かって開発を進めることが何としても必要であるが成功の見通しは容易ではない。理由はいうまでもないが防具によって空手が決定的に変わってくるからである。

 今、K1その他現況の格闘技に対する空手関係者の意識を尋ねてみると概して年輩層にはかれ等と競う考え方は無く、勝負を超越して人間的精神的修行の方向を求める気持があり、一方若手層には負けられない意識がある。年齢に限らず個人の立場と空手全体を見る立場とは又、当然異なると思うが私は双方を善きと心得ている。やはり空手全体としては他の格闘技の風下に立つわけにはゆかないのである。

 

 他面、空手は日本の伝統文化の一つとして礼儀、作法、道徳、信義、そして特に若い層に正義観、責任観を空手を通じて稽古並びに大会その他集会の場で植え付けるよう運動を起こす必要を痛感する。それは杓子定規の一律の行動でなく各個人の自由な意識の中に育てたものであるべきである。私は空手の試合制度創設期から試合会場の玄関前で先輩達が来ると大声でオス、オスなどと、旗を持って競うごとくに騒ぐ学生達は、表現は不本意だが、ずっと以前から「劣等感のうらがえし」と言ってきた。他の運動競技でも武道でもあのような例は見たことがない。よそで幸い真似するところはないがおそらく笑っていることだろう。それらを学生やOB達に広く伝えたいものだ。空手の学生全般を見れば誠に残念ながら他の運動部と比べて柄もよくないと思う。

 

(C)基本という言葉の捉え方について。と、再び「守」「破」「離」について。

 基本という言葉の意味をかなり以前から考えさせられている。

 基本が絶対的に重要であることは殆どの人が十分に理解し認識している。言うまでもなく私も同様である。しかしもう一度基本という言葉を掘り下げて勉強しなければならないと思う。基本無くしては何ごとも始まらない。基本なくして大成はありえない。これは疑う余地がない。したがってこのことは生涯忘れてはならない。そこで、その基本とは誰が、何時作ったものなのかという視点と、更に基本の次の段階として研究を深めてゆくべき形や組手など必要の稽古の要素の存在を疑う余地はない。これを如何に認識し如何に進めてゆくべきか。 基本といっても無論完全なものはありえない。空手を包む周囲の環境も多角的にみればそれは多岐の条件において大きく変化している。若し、仮の話しとして一生基本だけの稽古を続けたとしたらそのもたらす結果はどういうことになるだろうか。つまり基本の形として立派であっても実際の試合や組手の場での活用や成果はかなりおぼつかなくなることだろう。当事者は基本さえ確実なら大丈夫と言うかもしれない、しかしそのように簡単ではなく実際の試合の場は、つまり相手との勝負の場は全く別物と言っても良い程の違いがあることを、限りない試合の経験者達が熟知している。 先日、読売新聞に全日本柔道連盟の強化委員長でモントリオ-ル、オリンピック及びその直後かの世界選手権で共にヘビ-級で優勝し、金メダルを持ち帰った上村春樹氏の記述があったが、日本の柔道界は常に柔道とJUDOの間で闘っている。なまやさしいものではない。と。背の高いもの、力の強いもの、手、足の大変にリ-チの長い者、ロシアのサンボの投げを得意とするもの、現在の日本人が全く知らない柔道の「隅がえし」その他の投げを打ってくるもの、それらに対して「勝ってあたりまえ」という国民感情を背に必ず勝たねばならない。それが今、現在における空手というものなのである。時には外国に1人で派遣し、急に予定を変えて転戦させホテルや切符の手配を1人でさせ、心理的にも精神的にも馴れさせなければならない。と。空手にしても選手達に要求されることは全く同様なのである。空手とKARATEの間で戦い勝たねばばならない。 今年の大阪での柔道世界選手権では100Kg級の井上康生は全て一本勝ちで優勝したが、内股で相手を投げる時、共に二人が片足で立ってあしをかけ合ってて攻めぎあいながら井上は自分の立足を何と、三度もずらして足腰を整え直して一本勝ちを制したのだった。更に、次の選手との対戦では井上の投げ技が通用せず相手が四つ這ひになり「優勢]にもならなかった時、間髪を容れず四つ這ひのわきから、自身の稽古着を相手の首に巻きつけて締めて見事に一本をとり、他の選手達も快勝して四日にわたる試合の初日だけで四人出場の3人金、1人銀か銅の成績であった。日本の柔道は進歩し、確実に世界の場で確かなレベルになったことを確認した。 同様に空手も世界の場で単に「日本の空手」と言ってもはじまらない時代を迎えている。外国のKARATEと勝負して勝たねばならないのだ。

 

 戦後の沖縄を名実共に代表する長嶺将真師はその書の中で猫足立の空手に於ける重要性を説かれ、極めて重要な立ち方であるとして私も以前から同感だが、他の基本となる立ち方、攻撃手、受け手と共に稽古の折にそれらを合計して、全てで5分でも、10分でも行うことを続けることが重要であると説かれている。かねてから私は基本について1年ではなく2年はみっちりと稽古し、併せて形を稽古することによって相互補完的に質を高め基本の内容を確実にし、次第に組手の段階に入り、組手の稽古を通じて自己の基本の問題点の発見、伸ばしてゆく部分の発見など、基本、組手、形、相互の経験によってこそ得られる自身による問題部分の発見と、変化に臆することなく、工夫、改善を重ね、有効活用によって発展を実現してゆくことが理想と考えている。 そしてこの、長嶺師の説かれるごとく基本の稽古時間をここまで省略してゆくこと、そして且つ生涯、基本稽古を日に合計で5分でも10分でも継続して、基本の乱れを矯正して行くこと、そして創られた他の時間を他の稽古に充てることによる相互補完の方法をかねてから私の理想と考えていたが、うれしく思った次第であった。

 

 足利義満の時代に能を完成したと言われる観阿弥、世阿弥親子が能の極致に到達する段階として開いたと言われる「守」「破」「離」は、

「守」として、先ず教えを受け、これを忠実に守り、之を厳しい錬磨によっ身につけ

「破」として、続いて更に、「守」の領域を自ら破って、自らの研究、工夫、独自の経 験によって、研ぎ澄まされた感覚の領域を加えて鍛練を続け

「離」として、意識する領域から離れて自ずから在る。

のようなものであるのかもしれない。

 「守」の厳しい修行と、之を経て次第に「破」の修行との併行を意識し、実行することが誠に重要と考えている。

 

(D)組手のこと。「初期」「第二期」「第三期」として

 組手は通常三本組手から始まる。目的は、突手、受手、強靭にして柔軟な足腰筋肉骨などの鍛錬、出足と、そのスピ-ド、タイミング、気力、視点と視野、闘争精神の養成、相手の動きの予知と読み切り、極まり、感覚と感、はら、スピ-ド(左記三点は伊藤俊太郎さんが常に強調しておられた)即ち組手の初期稽古であるが、と同時にこれ等が、組手の第二期以降最終期まで継続する稽古の目的として繋がる目的、課題となる。尚、形には更に、感性が重要となる。

 

 第二期として通常一本組手を稽古する。相手の攻撃を受けると同時に自分の決め手を取れる体制、即ち「後の先」「先の先」の地歩を獲得し、一本でも連続でも攻撃して決め手をとる。一本組手は決め手を取るという組手の最重要課題の基本を確実に学び研究して稽古することを主目的とする。

 

 一本組手は極手を取る基本形である故、極めて重要である。最近、信濃町の木曜会などでよく行われるようになり大変結構なことと思っている。

 

 但し、一本組手に欠けるものは、本来が約束組手である故に自由組手と比べ相手の攻撃が分かること、従って受け易いこと、攻撃側の連続攻撃がないこと、攻撃も殆ど突きと決まっていること等により受け易いのみならず、自由組手、試合組手では最も難度の高い「後の先」「先の先」の地歩の獲得と、極手の取り合いが比較的容易である。従ってル-ル以外に約束のない試合組手において最も難度の高い、自分が極手を取るための有利な地歩を得る高難度の稽古が、之ら一本組手に欠ける点を承知する事が必要であり、またそれを知るによって一本組手の稽古の質もより高まる。

 

 組手の最終段階が自由組手であり、多くの不備を自らに気づかせる要素も多く、この稽古を決して欠かすことは出来ない。

 

 結論的に上記、三本、一本の組手順序を経て行う試合形式の組手が、組手として最も重要且つ技術的難度の高いものであることを認識しなくてはならない。

 

 終わりに、不本意ながら形についての記述が大変少くなかったが、形は基本の諸動作を可能な限り現実的に真剣に敵を想定して稽古するものである。それ故例えば日本空手協会の植木師範は、形を稽古しないと組手が本当に強くならないと言う意見も持っておられる。事実、形についての考え方は大変に幅の広いものがある。ここで書きつらねてみても単に広がった意見の羅列となってしまうとも考え一応筆を置かせて頂くこととする。

 

以上

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