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慶應義塾體育會空手部

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空手の由来 第4回(全6回)

第二章 「空手の由来」

沖縄に於ける空手関係史(1)

 外間哲弘氏(古間古武道宗家、沖縄空手道剛柔流範士九段)編著、「空手道歴史年表第一版」(その他)を思い掛けなく慶應義塾大学空手部OBの石田君が送ってくださった。これは丁度私がこの文を書くに当たってこういうものがないか探していたものであったので大変ありがたかった。沖縄の空手を系統的に書く為にはこれが大変にふさわしいものと考えこれを松涛舘関係を重点に抜粋して以下殆どを転記させて頂くこととする。

 

室町時代 後小松天皇//足利義満

1432年 日本から大砲、やり、鎧などの武具を琉球へ輸入。

1501年 尚真王武器の使用を禁止、そのための気力喪失を憂い、1522年空手を導入し空手が盛んになったと伝えられた。しかし、この説は事実とは異なり禁武政策と空手導入とは直接関係は無い。

1553年 尚清王那覇港入り口の屋良座森城に砲台を設置。

 

江戸時代 後陽成天皇//徳川家康

1644年 明、滅ぶ

1661年 清、中国全土を統一。

1727年 清、清国において拳法禁止令。少林寺焼き打ち、少林寺僧江南へ移動。

1752年 添石良術、出生。後に棒術で琉球王府武術指南。

1782年 佐久川親雲上寛賀、出生(~1842年。他に1733~1815年説、1762~1843年説あり)。一名「唐手佐久川」として有名。高原親雲上に師事、又、清国人武官よりシナ拳法を修め、棒術「佐久川の棍」をあみ出す。琉球に於ける空手の始祖的存在。薩摩に渡り剣の示現流の免許皆伝。琉球王府付の国学の老師。北京進貢使として北京渡航5回。北京にて客死。

[注] 親雲上とは、藤原氏は、士分者と説明して居られ、官吏の一定以上の立場の人を意味するらしい。

1800年 松村宗昆(~1892年。他に1798~1890年説、1809~1896年説あり)、首里山川に出生、別名、「武長」、号は「雲勇」。妻はツル、と言う女性空手家。1873年の遺稿に「武の道にも学士武芸、名目の武芸、武芸の武芸がある」。安里安恒、板良敷朝忠等に空手の他、鹿児島伝来の示現流棒術を指導。

1816年 英艦ライアラ号、アルセスト号来航、艦長バジル・ホ-ルガ『朝鮮西沿岸及び大琉球島探検航海記』に武器なき琉球国を外国に紹介。しかし、琉球は既に種子島に鉄砲が伝来する100年ほど前から銃火器を戦いに使用していた。(内戦と思う)

1828年 安里安恒出世、 船越義珍の空手の師。

1831年 この頃棒術の名人、周(上海出身)、那覇市安里崇元寺裏に住み、「周氏の棍」を琉球に伝承。

1832年 糸洲安恒出生(~1916年3月。1830、1838年説あり)首里儀保に出生。那覇手は筑戸登之親雲上より学ぶ。1905年「平安の形」創作

1866年 沖縄師範学校にて古式ナイフアンチの形を改良導入指導。「軍人社会の一助として]学務課の諮問に応え、1908年「空手十ヶ条」を提出。学校空手の先駆者となる。没後50周年を記念して1964年8月に小林流知花朝信を中心に空手関係者の碑として最古の顕彰碑を建立。船腰義珍の空手の師。

1853年5月 ペリ-のアメリカ艦隊来航。この年東恩名寛量(~1925年)、那覇西村に出生。1876~88年頃、福州のル-ル-コウのもとでシナ拳法修行。

1866年 屋部憲通(~1937年)、首里山川に出生。県立師範学校唐手術嘱託の糸州を助け軍務教官。

 

明治時代 明治天皇

明治維新 明治と改元

 首里崎山の御茶屋御殿内で筑登親雲上「壱百零八歩連の形」、新垣通事親雲上対真栄田筑登之親雲上の「交手」、棒術、ティンベ-の演武。また、サイ、鉄柱術なども披露され、尚泰王の册封使終了の最後の祝賀となる。

[注]交手とは組手の意。

1868年11月10日 富名腰義珍(後の日本渡来後、船越義珍)首里山川に出生(1870年説あり)。

1869年 花城長茂(~1945年)首里山川に出生。志願兵で、日清、日露戦争に参戦。得意技は「汪楫の形」。拳法八句の語句よりヒントを得て「空手」と命名。[注]長嶺氏著「沖縄の空手道」にこの花城氏の毛筆の手紙の写真があり、それに「明治三十八年八月 空手組手」とあるのを見いだした。従って空手と言う「空」の字は慶應の空手が生み出したものでないことが分るが後に本州で唐を空に改めた折は慶應大学が中心となって率先した。

1870年 本部朝基(~1942年)、首里当蔵に本部安司の三男に生まれる。儀保の佐久間、松村、糸州に師事。

1872年9月14日 明治政府、琉球藩を設置。

1873年 松村宗棍から桑江良正へ空手巻物を贈る。(複写を沖縄県空手博物館所蔵)

1874年 松村宗棍(76歳)、書四幅揮毫(書を四幅、揮毫(書画を書く事)した)。

1877年 上地完文(~1948年)出生。上地流の源流はシナ福州市の南派少林拳。 和歌山市に道場開設(1926年)。友寄隆優、上原三郎入門。1932年パンガイヌ-ン(半硬軟の意であり、体中を力を入れて固く締め、その直後に力を抜いて体を柔らかくして次の動作に入る意)流唐手術研究所開設。1941年上地流と改名。技法体系は、シナ伝来の三戦、セ-サン、サンセ-ルの形を基軸となす。1897年頃より13年間、虎形拳の周子和に師事。

1878年 屋比久孟伝(~1941年)首里に出生。空手は糸洲に師事。県立師範及び明治大学で指導。

1879年(明治12年)3月31日、 明治政府、琉球県を廃し沖縄県を設置。尚泰王、首里城を明け渡す。

1880年 沖縄県師範学校創立。

1887年 唐大基(~1944年)出生。シナ拳法「武備志」の技能伝承者。五祖拳の名手でチントウ、セイシャン、ロ-ハイ、ワンシュウの形を伝承。

1888年 宮城長順(~1953年)出生。那覇に剛柔流開祖。硫球警察学校空手師範。

1889年 東恩名寛量、沖縄に始めての空手道場を那覇に開設。

同年 摩文仁賢和(~1952年)出生。警察官時代、新垣の棒と多和田の釵を修む。糸洲系と東恩名系の形を学び、1929年大阪市鶴見に道場開設。1934年関西大学、1942年、東洋大学共に師範、後に、大日本空手道会設立。

1889年 粕谷真洋、慶應義塾大学教授出生。後に慶應大学に本州初の学校の空手部を創部。

1891年 祖堅方範、西原に出生。1905年、松村宗棍の孫松村ナビからナイフアンチ初段二段、パツサイ大、小、ク-サンク-白鶴、チントウ、五十四歩、平安初段、二段、三段、三戦を、更に1909年サイとカマを伝授。

1892年6月1日、 大塚博紀(孝名)、茨城に出生。船越義珍の門弟となり、少し後和道流を創始。

1895年 大日本武徳会創立(会長、渡辺千秋)、本部を京都に置き、武道家優遇策として称号「範士」「教士」「錬士」設定。

1897年 上地完文シナ福建省松渓に渡る。 同年 県立第一中学校、市立商業、師範学校等に唐手部が設置される。

1898年 千歳剛直那覇に出生。千唐流創始。

同年11月7日 松茂良興作(泊手の始祖)死去。19世紀末から20世紀初頭にかけて与那嶺武士ツル、安慶名ウシ、女武士メ-カ-(真栄城初枝)など女性空手家登場。

1902年 船越義珍『琉球新報』に「空手の歴史」掲載(沖縄県空手博物館にコピ-保存)。

1904年 糸洲安恒「平安の形」創作。首里手の基本形の整理、統合、シナ拳法の原形のナイフアンチなども改良。この頃を境に、首里手は新旧入り交じり普及されて行き、その後に問題を残したが、シナ伝来の手法が琉球人手法「唐手」へと変化した。そのため現在、同じ形名でも道場間に古式と新式とが共存して伝承される結果となった。

この年、小幡功(松涛館、慶應大学OB)、坊秀男(和道流、東京大学OB)出生。

1905年 花城長茂の空手指導、及び糸洲安恒の実績で沖縄県立第一中学校及び師範学校に唐手が採用。同時に「トゥ-ディ」の呼称も「カラテ」と改称され「空手」と表記されるようになった。

1906年 安里安恒、(松村宗棍の直弟子、船越義珍の師)死去。

1907年 長嶺真将出生。沖縄空手道連盟会長に四期連続就任。範士の称号を受ける。

1909年 山口剛玄、鹿児島に出生。1948年全日本空手道剛柔会設立。

同年 上地完文、シナにて10年余パンガイヌ-ン流の周氏和に師事して帰国。

同年 野口宏(松涛館、早稲田大学OB、稲門空手会会長)出生。

1911年 剣道、柔道が日本本土の中学、師範学校に正課として採用。

 

大正時代 大正天皇//総理大臣 西園寺公望

1912年7月30日、 大正と改元。

1913年 高木正朝、中山正敏(いずれも日本空手協会、中山は最高師範)出生。

1915年 宮城長順(剛柔流)、シナ福建省福州にわたり、シナ拳法を研究、修行し「転掌」形を考案(南派少林拳の六機手が原形となる)。

同年 伊藤俊太郎(松涛館、慶應大学OB)出生。

1917年 沖縄唐手研究会発会。摩文仁賢和宅にて屋部、花城、徳田、城間、大城、徳村、石川、船越、宮城のメンバ-が参集。

同年 渡部俊夫(松涛館、早稲田大学OB、稲門空手会会長)、 宇治田省三(剛柔流、立命館大OB)出生。

1918年 福井功(松涛館、拓殖大学OB、拓空会会長)、細川隆一郎(松涛館、早稲田大学OB)出生。

同年 糸満の空手家マチヤ-文徳(金城松)を撮影した記録映像と共に許田重発(当時30歳)他4、5名で剛柔流形「クルルンファ-」「転掌」「セ-エンチン」、おそらく沖縄で撮影された最古の映像か、沖縄県空手博物館に保存されている。

1920年 米国ロスアンゼルスにて屋部憲通、唐手演武。

同年 高木房次郎(松涛館、慶應大学OB)出生。

1921年3月6日 皇太子裕仁殿下渡欧途次首里城正殿で空手演武見学。

同年 木崎友晴(剛柔流、立命館大学OB)出生。

1922年 文部省主催第一回体育展覧会を東京にて開催、これと、これに続いて講道館にて船越義珍、「観空大」、儀間真謹「ナイフアンチ」を演武。

1924年4月12日  船越義珍、空手の段位を初発行(昇段者は、儀間真謹、粕谷真洋、大塚博紀、小西康裕、等。恐らく空手界初の段位証と思われる)。

同年10月15日船越義珍、慶應義塾大学唐手研究会の師範となる。

1925年10月 東京帝国大学唐手研究会設立。

 この頃、「唐手術」や「手」の呼称から首里手、那覇手、泊手、と呼称されるようになる。県労務課長の提案からであるが、実際にはそれ以前からそのように呼ばれていた。

1926年3月 那覇市にて「唐手術大会」開催、(開催者、宮城長順、摩文仁賢和、演武者は屋部、花城、久場、喜屋部等)、柔道の嘉納治五郎、三船久蔵など見学。

 

(第5回に続く...)

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